以前から気になる女性がいた。その女性は、主にアメリカで販売されているドーベルマンに関する書物の中で、必ずと言っても良いほどよく登場する人物である。
ここに一頭のドーベルマンの映像がある。
素晴らしい凛性と体躯構成を併せ持つこのドーベルマンの名前は、【ディクテイター・ヴォン・グレンヒューゲル】という。このドーベルマン、のちに【アメリカン・タイプ】のスタンダードの設計模範となるドーベルマンだ。
そして、そのリードを持つ若い女性ーー。
はじめてドーベルマンを迎え入れ、一瞬にしてドーベルマンの虜となった、ディクテイターのオーナー【ペギー・アダムソン】である。
ペギー・アダムソン【Peggy Adamson】
【ペギー・アダムソン(1908-1966)】
ペギーは、犬に対し元々強い情熱を持っていたわけではなかった。しかし、そんな彼女の気持ちを一頭のメスのドーベルマンが変えた。名前を【グランダ】と名付けた。しつけや服従訓練に必要な知識は、全て本から学び、一生懸命取り組んだ。その甲斐あって【グランダ】は彼女にとって、自慢のドーベルマンに成長した。
1941年も終りを迎える頃、ペギーは、メスとして適齢期に入るグランダのために、お婿さんとして、新たにドーベルマンの仔犬を迎えることを決めた。
そして、クリスマスプレゼントととしてやってきたその仔犬に、彼女は【ディクテイター】と名付けた。
無敗のディクテイター誕生
1940年代、この頃のAKCにおけるドッグショーは、アメリカ各地で番組放送され、美しい犬を一目と見ようと、新聞や広告など、犬好きだけでなく、多くの観客たちをにぎわせていた。
そんなある日、ペギーは、ディクテイターの姉妹が、【ベスト・オブ・ブリード(BOB)】を受賞したことを知らされた。このことがきっかけで、ディクテイターが1歳半になるころ、周りからの勧めもあって、彼女はようやくディクテイターをショーへ出陳してみることを決めた。
当時、アメリカではドーベルマンのスタンダードが非常に曖昧だった。【ドーベルマンの“標準”は、前年のチャンピョン(ch)次第】と言っても良いほどだった。今のような、“欠歯は失格、体のサイズや各部位の基本の形の細かい角度、たとえ、審査員に牙を出し逆毛を立てて唸った”としても失格にまではならなかった。
有るようで無かったドーベルマンの“標準”だったのだが、ディクテイターがリングに現れるやいなや、その美しさに歓声が沸き上がった。
才覚の片鱗を覗かせたディクテイターのデビュー戦の結果は、ドッグショー最高栄誉【ベスト・イン・ショー(BIS)】を獲得した。 その後、計5回のドッグショーへ出陳、その全てで、最高栄誉ベスト・イン・ショーの称号を獲得し、完全な無敗をおさめた。
彼女の中で、これまでとは明らかに異なるドーベルマンへの情熱が生まれた瞬間である。同時に、ペギーのハンドラーとしての技術にも注目が集まるようになり、ドーベルマンオーナー達がこぞってその技術を学ぼうと、彼女を中心に集まるようになっていた。
ディクテイターの功績は各国で報じられ、一気に【1940年代のアメリカを代表するドーベルマン】にまでのぼりつめた。ディクテイターの気質、コマンドに対しての素直さ、かつ好意的で、常に自信に満ちている姿は、当時のドーベルマンの概念を、根底から覆すものだった。
ディクテイターとグランダ
1940年代半ば、ペギーは、ディクテイターとグランダを繁殖ラインに固定し、ドーベルマンのブリーディングをはじめた。無敗のディクテイターの子供は、各国から申し込みが殺到し、世界中に送られた。
そしてある年、とんでもないことが起きるーー
最高栄誉である(BIS)やチャンピョン(ch)称号を獲得したトップ20頭のドーベルマン全てが、ディクテイターとグランダの子供とその孫に支配された。そして、ディクテイターの子供や孫、計52匹がドッグショーにおいてチャンピョン(ch)を獲得した。
これにより、ディクテイターは文字通り、各国【アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、中国、キューバ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フィリピン、イギリス】などの様々な国で、血統図の最上位、つまり基礎発生雄犬(土台)となっていった。
ドーベルマンスタンダード(標準)の最初の変化
無敗のディクテイターのオーナーであるペギーは、ブリーディングを行いながら、同時に、ドッグショー審査員としても従事するまでになっていた。
当時、ドーベルマンのスタンダードがまだ確立していないとは言え、ディクテイターを常にそばで見ていたペギーのジャッジは完璧だった。そのため、ある時は審査員として、またある時は新人審査員やドーベルマンのブリーダーにスタンダードを教える教師として、世界中で引っ張りだこだった。
そんなペギーが、ドーベルマンの“スタンダード”の確立に取り掛かる最初の出来事が起こる。それは、あるドーベルマンの審査を行なっていた時だった。立姿も美しく、威厳も有り、それは立派なドーベルマンだった。
しかし、ペギーが近づいた瞬間、ドーベルマンは顔にシワを寄せ、牙を見せて唸り声をあげた。今にも噛み付きそうな気配を示すドーベルマンに、ペギーは一旦離れ、ハンドラーに落ち着かせるように命じた。
ペギーはドーベルマンが落ち着くまで待ち、そして再度近づいた。しかし、ドーベルマンはやはり逆毛を立て、全身でペギーを威嚇した。
この時、ペギーは初めて、ハンドラーとその攻撃性の強いドーベルマンの受験資格を剥奪した。再試験の資格も認めなかった。曖昧だったドーベルマンの“標準”が、確かなものに変わる最初の瞬間だった。
そもそもそれまで、ドッグショーにおいて、【失格】という概念は一切なかったという。
これを機に、ドーベルマンのスタンダードが次々に決定した。まず、完全歯における重要性、ドーベルマンの体躯構成において様々な角度、頭部の形、耳、脚の形、キ甲からの背中の前高姿勢、毛質・毛色、性格・気質、凜性、そして優雅さを備えたドーベルマンであるために、美しいラインを慎重に測定し、より細かく細部に至るまで、緻密にスタンダードを設計していった。
▼これは彼女が決定したスタンダードの一部である。▼
結果として、ドーベルマン以外の犬種の【スタンダード】にまで、ペギーの発言は大きな影響力があった。
ミセス・ドーベルマン
YouTube
ペギーはその生涯をドーベルマンのスタンダード確立のために費やし、世界中のドーベルマンの判定に多大な貢献を果たした。そして、いつしか誰もが、彼女のことを【ミセス・ドーベルマン】と呼ぶようになっていた。
ペギー・アダムソン
彼女なしに、ドーベルマンのスタンダードは確立しなかっただろう。そしてもちろん、ディクテイターの血統は、日本でも受け継がれているーー。
資料:The Doberman Pinscher: Brains and Beauty (Howell's Best of Bre)